ディベイト下手

YWCAの英会話教室に出るようになってそろそろ3年になる。英会話学校というと、どこでもたいていは海外旅行用、資格試験用、ビジネス会話用、時事英語用、なんとなく日常会話用、とひと通り揃えているが、YWCAにはシェークスピアや短編小説、映画、あるいは画家と絵画を教材にするクラスがある。

あっちこっちのクラスを試してみて、私はその後、TEDという講演の動画と映画を交互に取り上げるコースに落ち着いた。映画はプライムビデオやUNEXTの配信を見てから出席し、補完資料も使いながら意見を交わすのだが、韓国人の講師の指導力が優れていて、大学院レベルの授業を思わせる充実した時間になった。ついてゆく生徒の方も大変で、講師の望むところまで届かない時もあるが、授業を維持できるかどうかの要点は、英語力以上に映画の内容に対する鑑賞力、批評力、分析力、そして発言力にあると思われた。

というのもこのクラスはYWCAの中でも特別で、他のたとえば短編小説のクラスでは語句の解釈、読解力の確認までだったし、絵画や音楽の愛好者が集まるクラスでは、どこの展覧会に行って来た、どのコンサートが楽しかったと感想を述べあう日常会話の範囲内だった。

日本人は討論やディベイトが苦手で、集団の中で自分の意見を主張するのは、それが仲間内であっても口数が多いのは差し出がましい、慎みが足りないぐらいに思われがちなようだ。戦後教育では、クラスで話し合うホームルームの時間が導入されたが、どのくらいの効果があったのか。多民族国家と違い、人口の98%が日本人だそうで、おまけに周りを海に囲まれ、陸地で国境を接する他国がひとつもない特殊な事情が働き、以心伝心、皆まで言うな、目を見りゃ分かる、の伝統文化が出来上がっている。群れの中で目立たぬようにしていないと、はみ出し者は袋叩きにあう。

残念ながらこのクラスは昨年夏、講師が遠隔地に転居してしまい、リモート授業で続けてくれないかと願ったが叶わなかった。その後若いアメリカ人が講師を引き継ぎ、生徒の顔ぶれも半分変わった。生徒が行儀よく講師の話に聞き入っていると、慣れない講師はひとりでしゃべり続ける羽目になり、時々私に「なにか聞いてくれ」と救いを求めるような視線を送ってくる。


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核兵器は抑止力を持つか


ロシアのプーチンが、半年たっても思うに任せぬウクライナにいら立っているようで、戦術核の使用を再三ちらつかせている。戦術核というのは、大規模で広域を狙う戦略核と違い、極地攻撃に使える小型の核兵器で、使い勝手がよいのだそうだ。

核は、アメリカが広島、長崎でその空前節後の破壊力を見せつけて以来、ソ連、イギリス、フランス、中国の戦勝国が次々と開発し保有国となり、核拡散防止条約で先行特権を保とうとした。つまり自分たちは核を持つが、それ以外の他国は持ってはいけないことにして、戦後の世界秩序を作ろうというわけで、1970年に発効、現在191カ国が条約に加盟している。しかしそんな虫のよい話に賛成する国ばかりでなく、条約に加盟しなかったり、したけど批准しなかったり、批准したけど脱退したりで、今ではイスラエル、イラン、北朝鮮、インド、パキスタンも保有、核は世界に1万2700発もある。

これじゃあ解決にならないと、核兵器禁止条約が、国連の採択を経て2021年やっと50カ国が賛成して発効した。これは核兵器の開発、実験、使用、使用の威嚇などあらゆる活動を例外なく禁止した国際条約だが、核保有国はそっぽを向いて乗ってこない。日本政府は、アメリカの核の傘の下にいる手前、賛成などとはとても怖くて言えず、例によってアメリカの意向に添っておとなしくついてゆく飼い犬ポチの役を演じている。

核は、広島と長崎にたった2発落としただけで、その年のうちに21万人以上が悲惨な死を遂げた(現在までの犠牲者は32万人超)。開発したばかりの当時の威力でさえ、そのケタ違いの恐ろしさに、核は以後、敵の攻撃を心理的に抑止するものとしての存在価値を持ち、実際の戦争には1度も使われたことがない。

ところが最近雲行きが怪しくなってきた。プーチンは本気ではないかと。持っているだけでは抑止力にならないことに気が付いたようだ。

核保有はアメリカの銃規制問題とよく似ている。規制反対派は、犯罪者に襲われたとき自衛の銃がないと身を守れないと叫ぶ。しかしその結果、かえって犯罪者が野放しで銃を持つことになり、大勢の犠牲者を生む乱射事件を誘発している。核も銃も、あれば諸刃の剣になる。だから核の傘の下にいれば安心かというと、むしろ先制攻撃の的にさえなる。

そればかりではない。日本は傘を借りている弱みで、アメリカの鼻息ばかりうかがうようになり、国際社会で独自の立場を主張する場面がほとんどない。吉田茂以降、戦後の経済優先、軍備は対米依存の国策が、長い間に大きなツケを払わされることになり、得意だった経済も今や勢いを失いつつある。

核保有国が非保有国に対して核を使わない国際ルールを作ればよいという提言もあるが、凶器所持の相手をやすやすと信用できるわけがない。結局、きわめて困難な選択だが、核廃絶しか解決の道はない。被爆国の日本は、想像を絶する経験を深く歴史に刻んできた。毅然として訴えなければならないことがたくさんある。それが、ポチが世界からの敬意を回復する道にもなる。

おまじない

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ウクライナに平和を、世界に平和を




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国葬でよかったのか


安倍元首相の国葬が、ゴタゴタ続きの挙句やっと終わった。ずいぶん手間がかかったのに、こんな葬式ならやらない方がよかった。故人もそう思っているのではないか。それとも、なにはともあれよくぞ名誉ある国葬で押し切ってくれたと喜んでいるのか。

そもそもは岸田首相が閣議決定だけでさっさと国葬を決めてしまったところから火が付く。どんな政敵でも亡くなれば弔意を示し、過去を称えるのが政界の習わしだから、野党にもそれなりの気を配れば最初のつまずきはなかった。国葬までは…と難色を示されたら議決を取ればよかった。ゆ党もいることだしすんなり決まった。

狙撃された直後は、テロに負けない、民主主義を守り抜くなどと名分が立った。しかし犯行動機が、旧統一教会への献金で家庭崩壊に陥り、憎さも憎しの協会つながりで安倍さんをターゲットにしたと分かった。これは世間によくある怨恨動機の殺人事件で、たまたま被害者が大物政治家だったが、思想的背景のある暗殺ではないし、民主主義への挑戦などと言えるものではない。

岸田さんはちょっと思い違いをしなかったか。この衝撃的な“暗殺”は、古くは伊藤博文、リンカーン、その後ガンジー、ケネディ、キング、近くは中村哲さんの歴史的大事件に準じ、国葬に充分相応しいからだれも反対しないだろう、と。

思いがけない突然の死には同情が高まるもので、たしかに事件直後の参院選で自民党は大勝したし、そのころは国葬反対の声も少なかった。しかしこの同情はむしろ、ジェームス・ディーン、大場正夫、ダイアナ妃といった有名人の驚きの事故死に寄せるものに近い。

日を追うごとに、自民党と旧統一教会との岸信介以来の長く深いつながりが明らかになってゆき、国葬関連費用も大きく膨らみ、ついに世論の賛否が逆転する。といって、いまさら自民党葬に格下げするのは、外国要人を招いた手前もありかっこ悪くてできるわけがない。安倍さん本人と教会との核心の関係を攻められ、故人のことは分からないとかわすのが精一杯になった。

間の悪いことに、国葬決定から実施までの間にイギリス女王の国葬が粛々と執り行われた。こっちは国民を分断するゴタゴタが外国メディアの注目する話題になり、比べればどうしたって分が悪かった。しかし在位70年の女王の国葬と比べるなら、戦中戦後の困難な時期にも耐えた昭和天皇の大喪の儀と比べるのが妥当だろう。

6度の選挙に勝利した戦後最長の長期政権、と身内の功績を称えるなら、自民党葬こそふさわしかった。影響力あった人は常に功罪相半ばだが、亡くなった後も選挙に勝ち、旧統一教会疑惑もうやむやにして逃げ切り、最後まで安倍さん流だった。

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悪人の自覚

太平洋戦争末期、核兵器開発(マンハッタン計画)を主導したロスアラモス国立研究所の初代所長、オッペンハイマーは、戦後、大きな後悔とともに反核の立場に立ち、古代インドの聖典に出てくる化身に自らを重ね「我は死神なり、世界の破壊者なり」と公に述懐した。国は彼を危険人物として公職を事実上追放し、FBIの監視下に置いた。

開発を急がせ、実際に投下命令を下したのはトルーマンで、死神というなら大統領こそ主犯だが、戦後一貫して実行の正当性を主張し、実態を隠し、反省も後悔もなかった。

人間はだれでも例外なく、自分の体の中に悪魔を一匹眠らせている、と私は思っている。ふだんはおとなしく眠っているが、何かのはずみで目を覚ますと暴れだして制御不能に陥る。

私がそんな確信を得たのは、10年ほど前にカンボジアのトゥールスレン虐殺博物館を訪問した時だった。1975年から4年間、極端な原始共産社会を描くポルポト政権下の恐怖政治で、人口800万人のうち300万人の同胞が殺されたとされる。

トゥールスレンは各地にあるキリングフィールド(処刑場跡地)の一つで、もとは高校の校舎だったところを強制収容所に改造し、教師、医師、法律家、宗教関係者などの知識人が片っ端から狩りとられ、放り込まれた。そして生き地獄が展開する。生爪を剥いだり、電気ショックをかけたり、逆さ吊りにして人糞の埋まった甕に漬け込むなどして“反革命分子”をむりやり自白させようとした。拷問に耐えかねて自殺、あるいは自白して処刑されてやっと楽になるという凄惨な現場が残されていた。赤ん坊は足を持って木の幹に頭を叩きつけられ殺された。1万2000人以上が収容され、生還者は8人だったという。

なぜ人間はこんなむごいことが正気でできるのだろう。トルーマンやポルポトに限った話ではない。ヒトラーのアウシュビッツ、スターリンの粛清、全斗煥の光州事件、鄧小平の天安門事件、そしてプーチンのウクライナ無差別爆撃と、ここ100年足らずの間にも蛮行はなんども繰り返され絶えることがない。

悪魔の正体は何か。たとえば祖国防衛の大義の下、欲しいものは手段を選ばず断固として手に入れるのだという強欲さ、あるいは狂気。目的が正当化できれば理屈はなんでもつく。一度始めたら躊躇や後悔は一切してはいけない。そうなると右向け右で動いた大勢の手下たちも選択の余地がない。のちに罪を問われれば、命令に背けは自分の命がなかった、と決まって答える。一気に悪魔が連鎖し、上も下も思考停止にはまり込んで行き着くところまでいってしまう。

人間が集団で社会を作り、欲望の渦の中で生きている限り、悪魔はいつでも目覚める時を待っている。群れに入れてもらいたい、入ったら認められたい、認められたら支配したい。国家規模の大集団でも、ごく狭い閉鎖社会でも同じことだ。上昇機運に乗るにつれ、物欲、色欲、権力欲、支配欲、名誉欲と、人間の欲望はとめどなく膨らんでゆく。

仏教では、五蘊盛苦(ごうんじょうく)といって、物事にとらわれるから苦しみが生まれる、実体のないものへの執着を捨て、苦しみから自らを解放せよと説くが、勝ち残りゲームに取り込まれるとそんな話は耳に入らない。勝ちさえするならどんな嘘でも平気でついて、強引にあるいは巧みに押し切る。

日常生活でも実際にそんな人をたまには見かけるが、因果応報でいずれ悪行の報いを受けるかというと、そうでもない。死後、人生の成功者、勝利者として称えられ、虚飾に満ちた盛大な葬式が営まれたりする。そういう見方をすればオッペンハイマーは決して成功者でも勝利者でもなく、失意のうちに人生の終末を迎えた。だが、勇気をもって“悪人”の自覚を吐露した誠実な人だった。

生きている間に人はしばしば誤りを犯す。人間はできの悪い生き物だからそれは避けられないが、後悔することは知っている。人々が果てしない欲望の海に漂いながら、われもまた悪人、との自覚を持って時には罪滅ぼしができると、世の中少しは住みやすくなるはずだが。

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私の76年とこれからのこと(4)

戦後77年、被爆体験の語り部がいなくなれば、ヒロシマが風化してゆくと心配する声があるが、私はそうは思わない。膨大な映像や資料が残っている。生き証人が絶えても、残された記録を見よう、聞こうとする気持ちがあれば、後世の関心が絶えることはない。問題は、語る側でなく見る側,聞く側にある。

語り部を語り継ごうとする高校生や大学生の活動がある一方で、日本がアメリカと戦争をしたことさえ知らない若い世代もいる。悲惨なものは目を背けようとする人たちもたくさんいる。外国人ならなおさら関心は遠くなる。しかし、ちょっとしたきっかけさえあれば、人間の愚かな歴史に気づき、中には過ちを繰り返さない道を探し始めてくれる人もいるだろう。

そう思いながら、広島平和記念資料館の再募集を待っていたが、今年もその予定はないと聞いた。コロナでガイドの需要がないのはいたしかたないが、加齢とともに私もだんだんタイムリミットが迫ってくる。名古屋の自宅から広島の平和公園まで3時間半。さらに現地で原爆ドーム―爆心地―原爆の子の像―慰霊碑―被爆アオギリと案内すると、戸外の真夏真冬はかなりこたえるだろう。資料館の係員に無理をするなと止められそうだ。

ことほどさように歳を取るのは情けない。なにか妙案はないかと思いつつ、ヒロシマに勝る代案は浮かばない。いっそ広島に住んでしまおうか。親兄姉と絶縁してまで一緒になった妻とは、近ごろ卒婚だからなんの支障もない。いや待て待て、70代半ばを過ぎて部屋を貸してくれる大家がいるだろうか。となると老人ホーム、そこからガイドにでかけるか。

人は結局、どこまでも葛藤の中で生きるもののようだ。それでも、暇で退屈するよりましだろう。(おわり)

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私の76年と,これからのこと(3)

小さな新聞社と中堅の製造業、兼務の期間もあってそれぞれ30年働いてきた。このうち製造業の方は、なりゆきでそうなり、与えられた任務をこなす努力はしてきたものの、いつもどこかで自分の本領とはいえない居心地の悪さを感じてきた。

もとより人生は、だれしも自分の思い通りに貫けるものではない。「置かれた場所で咲きなさい」と渡辺和子は書いた(幻冬舎文庫刊)。私自身も新入社員には「青い鳥などどこに探しに行ってもいない。いるとすれば、与えられた場所でコツコツとキャリアを積み上げていった自分の中に見つかる」と話してきた。

しかしそうして前進できるのは元気なうちだ。私の場合、医者いらず薬いらずで健康に何の不安もなかったのは60代の半ばまでで、その後は高血圧、潰瘍性大腸炎、70代で糸球体腎炎疑い、頸動脈の動脈硬化と、検査を受けては医者に脅され、今は通院しながら朝4種類、夜2種類の薬を飲まされる羽目になった。このほか今はやめたが長年の喫煙がたたって肺気腫の手前にあり、速足で10分も歩くと息切れがする。睡眠障害で眠剤も常用、入れ歯はないが奥歯のブリッジが危ない。

消化器、循環器、呼吸器と、体があっちこっちポンコツになるにつれ、気力、体力、知力も衰える。それまでずっと、積み上げてゆく足し算のパターンだったのに、峠を越えると今までできたことが年々できなくなり、だらだらと緩やかに下降してゆく引き算の境遇に置かれる。戸惑いつつ、この歳なら文句も言えないと受け入れざるを得ない。

こうして私の第4ステージも間もなく終わるが、さてこの後はどうしたものか。人生の最終章が近づいてくると、なにかやり残したことはないか、どんな終わり方をしたいか、としきりに考えるようになった。第5ステージの余生を、ぼんやりと無駄遣いしてしまいたくない。

広島の平和記念資料館で英語のボランティアガイドをしようと思い立ったのは3年前だった。ホームページを開くと募集を終えたばかりだったが、次の募集までに英語と昭和史の再学習をしておけばちょうどよいと思った。

あんな馬鹿げた戦争はなかった。日米開戦から半年のミッドウエイ海戦で負けて以来、ガダルカナル、インパール、レイテと完敗を続けた。最初から勝ち目のない戦争を延々と4年近く引きずり、原爆投下でやっと目が覚めた。せめてサイパン陥落で降伏していれば、その後の東京大空襲も硫黄島も沖縄戦も中国残留孤児もシベリア抑留も北方領土もなかった。

一方、アメリカに原爆投下の理はあるのか。壊滅状態の日本に2度の無差別攻撃で21万人が無残な死を遂げた。空前絶後の地獄を生みながら、アメリカは戦争の早期終結を理由に自らを正当化して押し通した。しかし実態は、7月に成功したばかりの核開発を、実際に使ってその威力をスターリンに見せつけ、戦後の世界戦略で圧倒的な優位に立つのが狙いだった。ABCC(戦後、広島に置かれたアメリカの原爆障害調査委員会)は大量破壊兵器の効果を調査研究するのが目的で、被爆者の治療は一切しなかった。(つづく)

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私の76年と、これからのこと(2)

私はさらにフィクションも書き始めた。新聞、雑誌の記事はいくら書いても書き飛ばし、読み飛ばされっぱなしで、書いた端からつぎつぎ消耗してゆく。それがたまらなくむなしくて、直木賞作家の井出孫六さんの教室に通い、何作かの習作を書いた。作家として立つのは困難でも、取材記者で生計を立てながら、自らの思いを見つめた世界を描いてゆこうと考えた。

ところがちょうどそのころ、生活のベースにと考えていた新聞社が経営不振になり、傾き始めた。動きの鈍い編集長と、きびきび小回りの利く営業妻の夫婦仲がかみ合わずついに離婚、お手上げ状態で倒産寸前の経営が私に託された。

火事場のバカ力とはこのことか、取材も営業もの一人二役で走り回り、悪夢のような経営危機は、意外に早く半年で立て直した。その後徐々に発行部数を伸ばし、5年で3万4000部から10万部を達成し、安定期に入った。ほっとひと息ついて、中断していたフィクションに取り掛かろうとした矢先、兄の訃報が届いた。拡張型心筋症、享年50歳。

兄は父の200人規模の会社を承継し、派手な社長就任式を披露したばかりだった。で、どうするの。弟は私しかいない。私は実業界より、ものを書いているほうがずっと楽しい。しかし父はすでに81歳、認知症が始まっており、昔の迫力など見る影もなかった。

とりあえずこの場はつながなければならない。私は東京の会社を残したまま名古屋の経営を兼任し、後継を見つけたら東京に引き上げるつもりで社長に就任した。ところが間もなく、後継者など他にいるわけがないことに気が付いた。キャリアの十分な実務担当者はいても、それは企業の進路を決定して最終責任を引き受ける人ではない。こうして第4ステージが始まる。

結局私は名古屋と東京をその後16年兼務して行き来した。だんだん東京に目が届かなくなり、ついに編集スタッフに穴が開いたところで会社清算の潮時にした。実はその直後、新聞を見捨ててやめたはずの編集者が、ノウハウも地盤もスポンサーもそのまま掠め取るようにして、題字だけ変えてそっくりの新聞を発刊した。唖然とする結末だった。

名古屋の経営は、30年で売り上げが1.5倍に伸びた。東京で発行部数を5年で3倍に伸ばしたことに比べると緩やかな成長だが、やり方がまったく違っていた。東京ではどんな業務も自分でこなせた。名古屋は、200人の従業員にいかにその気になって働いてもらうかを常に考えた。会社の使命、将来像、方針を示し、従業員の熱意、行動力をひとつ、ひとつ呼び起こす仕組みを山ほど作った。創業者が築いた基盤と、あとに続く従業員がいて、仕組みや仕掛けが機能してきた。
(つづく)

おまじない

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私の76年と、これからのこと(1)

「古稀おめでとう」のメッセージを孫からもらった時は、別におめでたくもないけどな、と思っていたが、気が付けば来年は喜寿になる。この先は傘寿で、その先は米寿かいな、いやはや、もういつ死んでもおかしくないと思いつつ「線路は続くよ、どこまでも」みたいな毎日をどう受け止めたらよいのだろう。

確かなことは言えないが、一応の心づもりはある。この歳の平均余命はあと10年ちょっと、誤差がプラスマイナス5年と考えれば、早いとあと数年でアウトだが、長ければまだひと仕事できる。これまでの4段階の人生を経て、第5ステージはどこへ踏み出すか。計画魔の私にはすでに用意があるが、思ったように行くのかどうか。

振り返ってみると、まず第1ステージは親元で育った18歳まで。なにしろ父親は、明治生まれのひとりっ子育ち、おまけに製造会社を創業してしてワンマン経営者だったから、家庭でも侵すべからざる絶対君主だった。私の反権力的性向は、こうした父親への反発から培われたように思う。

窮屈だった家庭から一気に解放されたのが、大学入学を機に上京してからの第2ステージで、学生運動、伝統芸能や仏教文化への傾倒、世界一周放浪の冒険、古典文学研究と、やりたいことはなんでも全力投入した青春の11年だった。

その後いったん故郷に戻ったが、結婚をめぐってすぐに両親と正面衝突になり、決別してからの14年が第3ステージ。学生時代の後輩のアパートに4畳半の空き部屋があったのでそこを借り、その女性と同棲を経て入籍する一方、たまたまその土地の新聞社が取材記者を募集していたので、面白そうだと応募してみた。

社長と面接の後、居合わせた客と3人でなぜだか居酒屋に行く流れになり、飲んで話しているうちにお互い気に入らず、こっちも採用辞退、相手も不採用でその夜は終わった。初対面の人にタダ酒飲まされたままでは義理が悪いので、埋め合わせにエッセイを4本書いて送っておいたら、相手の気が変わって入社を勧められた。

平屋木造民家の畳敷き3部屋をぶち抜いて事務所にし、タブロイド4ページを週刊で発行、社長が編集、奥さんが営業で、ほかにパートのおばさんが3人いるだけ。私は子どものころから文章を書くのが好きで自信もあったが、親子喧嘩のゴタゴタがなければ、ここを起点にものを書いて飯を食ってゆこうなどとは考えなかったろう。選択の余地がないと簡単に踏ん切りがつく。

街の新聞社には、散歩途中の老人が用もなく雑談をしに立ち寄ったり、行方不明になった飼い犬を紙上で探してくれと主婦が頼みに来たり、不要になったベビーサークルをリサイクルしたい若妻がいたりと、市井の人々が行き交うテレビドラマを見るような面白さがあった。

社長は編集長とは言いながらちっとも動かぬ人で、私は取材、写真撮影、原稿書き、広告の文案作り、レイアウト、なんでもやって覚えた。しかし、もっと大きな記事を書きたい。そこでここを踏み台にしてフリーライターになろうと、業界紙や情報誌、綜合雑誌、日刊紙の連載にも手を広げた。(つづく)

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選挙で動いたもの

私は昔からずっと無党派で、与党が安定多数を続けると、思い上がって好き勝手の暴走を始めるから、与野党拮抗で牽制が働くのが健全、という考えでいる。衆参ねじれだと何も決まらないのでそれも考えものだが、ときどき政権交代が起きるぐらいがよいと思う。安倍一強は最悪だった。

支持政党がないので、選挙のたびに苦労する。迷わずこの人、この政党ということがめったにない。まず消去法で、入れたくない候補を消してゆく。残った人から当選圏内にいるのはだれかと判断する。せっかく投じるのだから死票にはしたくない。まあ、四苦八苦の苦肉の策に近い。それでも棄権するよりはマシで、投票は有権者の権利行使というより、社会のバランスを取るための市民の義務と思っている。

日本の現状は2大政党化には程遠い。野党は分裂割拠して、選挙協力しなければ歯が立たないのに、バラバラになって数を減らした上、野党の群れの中から目立ちたがって、与党にすり寄る党派も出てきた。「や党」でも「よ党」でもない「ゆ党」だと揶揄されて、うまい言い方を思いつくものだと感心する。

昔、保革伯仲の一方を担った社会党は、いまや党名さえ消えた。流れを汲む社民党も消滅寸前の危機にある。「山が動いた」と叫んだころの勢いはどこへ行ったのかと思うが、3分の1の議席の確保に安住し、万年野党に甘んじて動かなかった結果だと冷ややかに言う識者もいる。

今回の選挙結果から、50歳より下の世代では、今までの保守対リベラルの対立軸ではなく、改革対非改革の対立軸で政党を判断するようになったとの分析もある。それによると「立民や共産も古い政治を行う非改革とみられ、自民と差別化できなかった。維新は改革のイメージで伸びた」のだという(遠藤晶久早大准教授。7月19日付中日新聞朝刊)。そういう点では、れいわも比較的若い層の支持で伸びた。

今回は、ロシアのウクライナ侵攻や投票日直前の安倍銃撃事件に浮足立って、選挙に少なからず情緒的な影響を与えた。選挙に風やトレンドはつきものだが、もとより一夜限りのイベントではない。いやむしろ、余勢を駆って国葬に持ち込み、モリカケ、桜、財政の失敗、旧統一教会との浅からぬ縁、クサいものはみんなまとめてフタをしてチャラにしてしまおうという、このくらいのしたたかさを野党も少しは見習わないと。

おまじない

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無党派にも愛の手を



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スーパーマーケットの風景(2)

スーパーに来るのは主婦中心かというと、近頃は昔と違って老若男女、さまざまな人がひとりで、あるいは連れ立ってスーパーにやってくる。時間帯やエリアにもよるが、年寄りが目立つのは高齢化社会の反映か。

ひとりで来店のじいさんは見かけによらず動きが早い。機敏というほどではないが、品物を選ぶのにあまり迷わない。独居生活に手慣れたリズムがある。

これと反対なのか、ばあさんとペアのじいさんで、ただばあさんの尻についてくるだけでなんの役にも立たない。「あんたこれ好きでしょう。買っとく?」「ああ、そうだね」「これは高いからやめとこう」「そうか、そうして」。私が買おうと思っている納豆の前に、意味もなくぼおっと立ったまま、のいてくれないので、横から手を伸ばしてアピールしてみるが、それでもばあさんの後についたまま何も気づかない。

このじいさんは買い物袋の運び役で来たのだろうか、あるいはマイカーの運転係なのか。自分の任務を明確に意識してというよりは、家で留守番しているのも退屈なので、リハビリいや運動を兼ねてばあさんとお出かけといったところだろうか。ばあさんはどう思っているのだろう。介護のつもりか、老いらくのデートで変わらぬ愛を育んでいるのか。

スマホで頻繁にやりとししながら買い込んでいるじいさんもいる。スマホの向こうには妻がいて、細かい指示を受けながら買い付け業務をこなしているのだろう。じいさんとは言いながら、リタイア前の仕事ぶりがよみがえるようだ。

ばあさん同士というのもある。連れ立って来たのでなく予期せず店で出会って、「ああら、あなた」と立ち話が始まる。これが長い。私が果物売り場、野菜売り場、魚売り場、麺類、調味料、肉、乳製品、飲料水と回って、忘れ物の追加に野菜売り場に戻ってみると、カートを止めた二人が向き合って、井戸端会議もたけなわ、話の切れ目がない。

井戸端会議は昔も今も必ず女同士。私が子供のころは、道端で長丁場の人を見かけたが、そりゃあスーパーの店内の方が冷暖房完備で話も弾む。(おわり)

おまじない

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今日も楽しい買い物を



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