私の76年と、これからのこと(2)

私はさらにフィクションも書き始めた。新聞、雑誌の記事はいくら書いても書き飛ばし、読み飛ばされっぱなしで、書いた端からつぎつぎ消耗してゆく。それがたまらなくむなしくて、直木賞作家の井出孫六さんの教室に通い、何作かの習作を書いた。作家として立つのは困難でも、取材記者で生計を立てながら、自らの思いを見つめた世界を描いてゆこうと考えた。

ところがちょうどそのころ、生活のベースにと考えていた新聞社が経営不振になり、傾き始めた。動きの鈍い編集長と、きびきび小回りの利く営業妻の夫婦仲がかみ合わずついに離婚、お手上げ状態で倒産寸前の経営が私に託された。

火事場のバカ力とはこのことか、取材も営業もの一人二役で走り回り、悪夢のような経営危機は、意外に早く半年で立て直した。その後徐々に発行部数を伸ばし、5年で3万4000部から10万部を達成し、安定期に入った。ほっとひと息ついて、中断していたフィクションに取り掛かろうとした矢先、兄の訃報が届いた。拡張型心筋症、享年50歳。

兄は父の200人規模の会社を承継し、派手な社長就任式を披露したばかりだった。で、どうするの。弟は私しかいない。私は実業界より、ものを書いているほうがずっと楽しい。しかし父はすでに81歳、認知症が始まっており、昔の迫力など見る影もなかった。

とりあえずこの場はつながなければならない。私は東京の会社を残したまま名古屋の経営を兼任し、後継を見つけたら東京に引き上げるつもりで社長に就任した。ところが間もなく、後継者など他にいるわけがないことに気が付いた。キャリアの十分な実務担当者はいても、それは企業の進路を決定して最終責任を引き受ける人ではない。こうして第4ステージが始まる。

結局私は名古屋と東京をその後16年兼務して行き来した。だんだん東京に目が届かなくなり、ついに編集スタッフに穴が開いたところで会社清算の潮時にした。実はその直後、新聞を見捨ててやめたはずの編集者が、ノウハウも地盤もスポンサーもそのまま掠め取るようにして、題字だけ変えてそっくりの新聞を発刊した。唖然とする結末だった。

名古屋の経営は、30年で売り上げが1.5倍に伸びた。東京で発行部数を5年で3倍に伸ばしたことに比べると緩やかな成長だが、やり方がまったく違っていた。東京ではどんな業務も自分でこなせた。名古屋は、200人の従業員にいかにその気になって働いてもらうかを常に考えた。会社の使命、将来像、方針を示し、従業員の熱意、行動力をひとつ、ひとつ呼び起こす仕組みを山ほど作った。創業者が築いた基盤と、あとに続く従業員がいて、仕組みや仕掛けが機能してきた。
(つづく)

おまじない

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