悪人の自覚

太平洋戦争末期、核兵器開発(マンハッタン計画)を主導したロスアラモス国立研究所の初代所長、オッペンハイマーは、戦後、大きな後悔とともに反核の立場に立ち、古代インドの聖典に出てくる化身に自らを重ね「我は死神なり、世界の破壊者なり」と公に述懐した。国は彼を危険人物として公職を事実上追放し、FBIの監視下に置いた。

開発を急がせ、実際に投下命令を下したのはトルーマンで、死神というなら大統領こそ主犯だが、戦後一貫して実行の正当性を主張し、実態を隠し、反省も後悔もなかった。

人間はだれでも例外なく、自分の体の中に悪魔を一匹眠らせている、と私は思っている。ふだんはおとなしく眠っているが、何かのはずみで目を覚ますと暴れだして制御不能に陥る。

私がそんな確信を得たのは、10年ほど前にカンボジアのトゥールスレン虐殺博物館を訪問した時だった。1975年から4年間、極端な原始共産社会を描くポルポト政権下の恐怖政治で、人口800万人のうち300万人の同胞が殺されたとされる。

トゥールスレンは各地にあるキリングフィールド(処刑場跡地)の一つで、もとは高校の校舎だったところを強制収容所に改造し、教師、医師、法律家、宗教関係者などの知識人が片っ端から狩りとられ、放り込まれた。そして生き地獄が展開する。生爪を剥いだり、電気ショックをかけたり、逆さ吊りにして人糞の埋まった甕に漬け込むなどして“反革命分子”をむりやり自白させようとした。拷問に耐えかねて自殺、あるいは自白して処刑されてやっと楽になるという凄惨な現場が残されていた。赤ん坊は足を持って木の幹に頭を叩きつけられ殺された。1万2000人以上が収容され、生還者は8人だったという。

なぜ人間はこんなむごいことが正気でできるのだろう。トルーマンやポルポトに限った話ではない。ヒトラーのアウシュビッツ、スターリンの粛清、全斗煥の光州事件、鄧小平の天安門事件、そしてプーチンのウクライナ無差別爆撃と、ここ100年足らずの間にも蛮行はなんども繰り返され絶えることがない。

悪魔の正体は何か。たとえば祖国防衛の大義の下、欲しいものは手段を選ばず断固として手に入れるのだという強欲さ、あるいは狂気。目的が正当化できれば理屈はなんでもつく。一度始めたら躊躇や後悔は一切してはいけない。そうなると右向け右で動いた大勢の手下たちも選択の余地がない。のちに罪を問われれば、命令に背けは自分の命がなかった、と決まって答える。一気に悪魔が連鎖し、上も下も思考停止にはまり込んで行き着くところまでいってしまう。

人間が集団で社会を作り、欲望の渦の中で生きている限り、悪魔はいつでも目覚める時を待っている。群れに入れてもらいたい、入ったら認められたい、認められたら支配したい。国家規模の大集団でも、ごく狭い閉鎖社会でも同じことだ。上昇機運に乗るにつれ、物欲、色欲、権力欲、支配欲、名誉欲と、人間の欲望はとめどなく膨らんでゆく。

仏教では、五蘊盛苦(ごうんじょうく)といって、物事にとらわれるから苦しみが生まれる、実体のないものへの執着を捨て、苦しみから自らを解放せよと説くが、勝ち残りゲームに取り込まれるとそんな話は耳に入らない。勝ちさえするならどんな嘘でも平気でついて、強引にあるいは巧みに押し切る。

日常生活でも実際にそんな人をたまには見かけるが、因果応報でいずれ悪行の報いを受けるかというと、そうでもない。死後、人生の成功者、勝利者として称えられ、虚飾に満ちた盛大な葬式が営まれたりする。そういう見方をすればオッペンハイマーは決して成功者でも勝利者でもなく、失意のうちに人生の終末を迎えた。だが、勇気をもって“悪人”の自覚を吐露した誠実な人だった。

生きている間に人はしばしば誤りを犯す。人間はできの悪い生き物だからそれは避けられないが、後悔することは知っている。人々が果てしない欲望の海に漂いながら、われもまた悪人、との自覚を持って時には罪滅ぼしができると、世の中少しは住みやすくなるはずだが。

おまじない

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