スーパーマーケットの風景(1)

山形の貧農の子、おしんの一代記「おしん」(NHKの朝の連続ドラマ)で、長男が当時ハシリのスーパーマーケット経営に乗り出すのは、いつごろだったか。私が初めてスーパーに入ったのは、60年近く前だった。

そのころ私は上京したての大学1年生で、ひばりヶ丘にある先輩のアパートに遊びに行ったら、駅前のスーパーで食材を買うのに付き合わされた。手料理をふるまってくれたのはありがたかったが、若い男が出入りするにはちょっと気後れのする場所だった。

時を経て、状況はすっかり様変わりした。資本力にモノを言わせた大型店舗とコンビニとの板挟みに会い、今や個人商店は見る陰もない。スーパーはさらに複合モールへと発展したり、高級、標準、格安店に作り分けて多店舗展開している。

高級店は標準店に比べ、倍もする値段で品ぞろえをしている。たしかにうまい食材もあり、この店でなければという客もいるのだろうが、家庭料理でそこまで見栄を張らなくてもいいだろうにという気がする。この層が食品ロスを絶対に出さないなら、それはそれでひとつの見識だが、そうとも思えない。こんな家庭に招かれて、この舌平目はなんとかで、このワインはブルターニュの何年物で、などと講釈を始められたらすぐに帰りたくなりそうだ。招かれたことはないが。

格安店には格安店の戦術がある。新聞の折り込み広告には上質紙を使わず、ザラ紙に2色印刷で、広告費が安上がりという以上に、いかにも安いと印象付ける効果を狙っていそうだ。

それは商品のディスプレイにもいえる。ごしゃごしゃと並べてあって、なんだか安っぽい。「まあおいしそう」というより「用が足りれば、ぜいたく言ったらきりがない」ところにアピールの力点がありそうだ。それでいて値段を冷静にチェックすると、大して安くない。値段に敏感な客層に、これで効果があるのだろうか。(つづく)


おまじない

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ブログ再開のお知らせ

2019年8月から2年半も休筆していました。休筆というよりもうやめたつもりでしたが、後期高齢者になって仕事を減らしたし、それでなくてもMRIを撮ったら脳が縮んで頭蓋骨との間に隙間ができているので、どうもこのままではまずい。で、無駄な抵抗と知りつつ、憎まれ口を叩いていれば何かの足しになるかと、ブログを再開することにしました。ご愛読いただければ幸いです。


動画制作

会社案内というと、ホームページのほかにはこれまでパンフレットを用意していたが、もうそんな時代ではなかろうと、動画を作ることになった。
制作会社を決め、参考までに他社の動画を4、5本見てみたが、どれも似たり寄ったりのワンパターンで面白みがない。冒頭は森の空撮から始まって、ドローン搭載のカメラがパンすると工場の全景が映る。そこから屋内に潜り、清潔な職場、勤勉でにこやかな従業員の働く姿、再び外に出て発展を続ける大都市の俯瞰、チャカチャカとリズムのよい音楽、そして自画自賛のナレーション。自社紹介にまさか辛口批評もできまいが、これではすぐにあくびが出て、我慢するのも3分が限度だろう。
「そうです。3分がこの種の動画の目安です」と制作会社のディレクターも言うが、お客に我慢させたのでは会社案内にならない。
「これねえ、テレビの食レポと一緒だよ」と私は言った。外食の店を訪問して試食したタレントやアナウンサーが、その味を視聴者になんとかして伝えようといろいろ言ってみるが、食べる前から褒めるに決まっているとこっちはわかっている。味見できない以上、本人のひとり相撲を白けて見ているほかない。
チマチマしないで140億年前の宇宙の誕生から行こう、と提案した。その悠久の時空を超えて、現在のわれわれの営みにつながっている。それでこそ当社の企業理念「森羅万象に生かされ、志をもって一隅を担う」にふさわしい。
というわけで、動画の導入部は、宇宙の一角で地球が誕生、活発な火山活動、海の形成、シーラカンス、恐竜、原人からホモサピエンスへの進化、有史以後の偉人の登場……つぎつぎ画面が変わってやっとわが社の全景。この偉人でまた試行錯誤。最初はダビンチ、ニュートン、アインシュタイン、ノーベル、ガンジー、キング牧師、杉原千歩、マザーテレサ、ジョン・レノンだった。しかしノーベルは大量殺りく兵器の発明者だから真っ先にカット、ジョン・レノンは肖像権があるのでカット、そうなると代わりにといっても、スティーブ・ジョブスも中村哲もダメ、後半が人道主義に偏っているので、マザーテレサの代わりに女性ならキュリー夫人でどうか。日本人をもう一人というので御木本幸吉の名も挙がったが却下。養殖真珠の発明はすごいが、真珠は別になくても生活に困らない。虚飾の象徴で大金持ちになっただけと言ってしまえば身もフタもないが、系譜の趣旨にそぐわない。
こうして作ってみたら導入部だけで1分、全部で11分。いくらなんでも長すぎるだろうと思ったが、縮めようがない。せいぜい3分と言っていたディレクターも「ストーリー展開がしっかりしているので大丈夫です」。そうだね、面白がってくれればまあいいか。


おまじない

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1周回って戻る

腎臓内科の検査結果に判断が出るまで1カ月待たされた。その間、まさかとは思うが、人工透析の開始なんでおおごとになったらどうしようと気がかりだった。

ちょっと予備知識をと、健康雑誌の特集記事を読んでみた。すると、腎臓は機能が30%程度まで低下しないと自覚症状が表れないので、日ごろからわずかなサインを見逃さないようにと注意を促しつつ、具体的にはむくみ、疲労感、息切れ、体重増加などを挙げている。

ウーム、そういえば足首に少しむくみが認められる。疲れやすいのは歳のせい、息切れは長期の喫煙習慣のせい、体重増加はその喫煙をやめたせい、と思っていたが、ひょっとしてこれはみんな、腎臓機能低下の結果ではないか。面倒なことが嫌いな私にとって、週2,3回、1回4時間の通院透析を10年も続けることになれば、かなりまいる話だ。旅行にも行けない。

それでなくても歳とともに、体のあちこちに故障や不具合が出るのは自然のなりゆきなんだから、町医者任せにしていたのが間違いだった、とどうしても悪い方に考える。

さて結果発表。軽度ではないが高度でもなく、透析は免れた。今後は2カ月ごとの尿検査と血液検査で、経過観察をする――なんだ、ずいぶん脅かされたけど見立ては町医者と同じ。こっちの専門医は高脂血症や尿酸値が基準値を少々オーバーしているのも見逃さず、薬が追加されて計7種類に増えた。

だんだん薬漬けになるのもいかがなものか。むずかしい年ごろになったものだ。

おまじない

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あちら立てればこちらが立たず

春先から太りだし、73キロを超えるようになった。これまでならちょっと気をつければ70キロまで戻せたのに、今回はなぜか歯止めが利かず、74キロを突破した。歳のせいで代謝が悪くなったんだろうと子どもに言われ、首を傾げていてハタと思い当たった。昨年秋にタバコをやめたからに違いない。太り出すまで間があったので、すぐには原因にたどり着けなかった。

喫煙は、肺機能の低下を止めるためにやっとやめたので、体重調整のためといってまた始めるわけにもゆかない。となると、炭水化物を減らしてカロリー制限した食事と運動ということになる。栄養はたまご、魚、牛乳、大豆製品などのタンパク質で補えばよい。

ところが先日、病院の栄養指導を受けたら、全く逆のことを言われた。「タンパク質を抑えて、炭水化物で補ってください」。これには少々いきさつがある。

3、4年前から病院の定期検診で尿にタンパクが出るようになり、要検査の指示で町医者に見てもらってきた。その後、病院からは毎年指示が出るが、私としては町医者に預けて、観察下にあるつもりだった。ただし、町医者は血液検査と尿検査はせっせと取るが、結果に対してどう動くというわけでもなく、「尿たんぱくには、塩分減らして血圧下げるぐらいしかやりようなくて。まあ人工透析というほどの数字でもなく、しばらく経過観察しましょう」で終わっていた。

なにもしないなら毎回検査をする必要もないし、それに順番待ちの患者が多くて予約しても長時間待たされるので、いつ来ればよいのだと受付に聞いても「何とも言えません」などとマヌケな返事をする。高齢化社会が進むと、とりわけ内科は放っておいてもじいさん、ばあさんが、あっちが悪い、こっちが悪いと押し寄せるから、医者も受け付けも真剣味がなくなる。

上から下まで頭を使わない医院には見切りをつけて、町医者を変えたところ、病院と町医者の連携が取れ、病院に3泊して腎生検(腎臓の組織を取り病状や原因を分析する検査)をすることになった。病院で、なんでもっと早く来なかったの、と言われたが、冗談じゃない、ずっと町医者に診てもらっていた。なるほど、かかりつけ医がいれば安心なのでなく、かえって事態を放置し、悪化させることもあるのだ。医者を無条件で信用しないほうがよい。

腎生検の組織採取自体は30分ほどで終ったが、そのあとが大変で、自分の体重で腎臓の止血をしなければならないから、一昼夜仰向けに寝たまま身動きできない。食事が運ばれても、仰向けの姿勢でどうやって食うんだと思うし、運動量ゼロで腹も減らないし食欲もない。3食抜いたら2キロやせた。これがせめてものご褒美。

健康のためにタバコをやめたらメタボになり、健康のために炭水化物を減らしたら、健康のためにタンパク質を減らし炭水化物で補えと言われ、あたしゃ一体どうすりゃいいのさ。

おまじない

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続・第1.5の人生

体力の衰えを感じて、この春から勤務時間を3割減らして、夕方帰ることにしてみた。

さて、家に戻って夜までの間、何か少しまとまったことに取り掛かろうと思うが、どうもやる気が出て来ない。くたびれて仕事を切り上げたのだから、帰宅してもくたびれているのは同じことだ。だらだらとしているうちに、退屈だから早めの晩酌を始める。なんだかこんなことじゃ意味ないなと思う。

余暇の活用と思って、英会話や料理教室通いを始めたのだか、ひまを埋めるという考えではだめらしい。若いうちならプラスアルファの変化を余力でこなせるが、活力が峠を越えると、仕事を続けながらマイナス分を埋め戻したのでは、調整したことにならない。少しずつ引き算をしながら、バランスを取って人生を送るのはとても難しい。

いずれは仕事から全く手を引く時もくるだろう。そうなるとなおさら、ひまつぶしではいつまでもしのげない。いつまでもが数年ならいい。辞世の句でも用意して静かに待てばよい。しかし思いのほか長生きして、10年、15年しても一向にお迎えが来ないとなると、長期計画を立てて進まないととても待ちきれない。それでいてできることはどんどん限られてくる。

残った時間をどう使うか。同窓のリタイア組は、長年がんばったんだからもう充分だろう、むりせず、ゆっくりと、楽しく自分のためだけに時間を使っても罰は当たらないと思い、その通りにしている人がほとんどのようだ。自らを終わった人、過去の人として受け入れている。

もうひとつ生き方がある。いくつになっても、人の世で生きる限り、社会への働きかけや役割を続けてこそ意味があるのだと。

どちらでなければと言いたいわけではない。その人がパーソナルで充実したいか、パブリックで充実感を得ようとするのかで決まることだから。ただ、パブリックの手本は、私の身近にはまずいない。たとえば、遠隔地で難しいが、広島の原爆資料館で英語のボランティア通訳がやれたらいいな、などと投げかけてみても、老人仲間は全く関心を示さない。

そんなことを考えるだけで、私は彼らにとって理解不能の変わり者に映る。私は私で、現役志向でいる以上は常に社会とのテンションを下げるわけにはゆかない。下げないから浮いてしまう。

第1.5の人生と言うのは第1でも第2でもなく、なんとも言いようがない。


おまじない

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新聞変えてみたら

先月から宅配の新聞を変えてみた。以前ほど記事が面白くなく、じっくり読む気にならなくなったからだ。といって、その新聞が悪いわけではない。なにが起きて、どう書いても、政局が少しも動かず、変わり映えがしないからだ。

ジャーナリズムの真髄は、おや、まあ、へえ、にある。私は朝起きるとまず新聞受けに向かい、昔風に言うなら「耳目を驚かす」ようなできごとがドカンと載っていないかと、期待を持って朝刊を開く。

政治の不祥事なら絶え間なく起きる。主要閣僚の利益誘導、裏工作、暴言、失言、官僚の忖度、隠蔽、改ざん、そして急性記憶喪失。バレバレなのに、みんなうやむやになって、その後の居座り、栄転。新聞が噛みついても、そよ風のそよぐがごとく何事もなく通り過ぎ、どこの発展途上国の話なのかと首を傾げたくなる。

つい最近、下北道路の忖度発言で久しぶりに、お調子者の副大臣のクビがとんだが、忖度といえばモリカケはあれでおしまいかい、と我ながら懐かしく思い出す始末。空しさ募って選挙に行く気にもならず、無党派層としていかにもふがいない。これではいけないと思いつつ、ますます厚顔無恥の面々のやりたい放題になる。

そう思って見るせいか、彼らの人相の実に悪いこと。「必殺仕事人」に素顔のまま登場しても、存在感豊かにj悪役が務まりそうだ。

だから新聞には、飽きの来る憤慨一辺倒の論調でなく、もっと書きようがあるだろうと、新聞を変えてみたのだが、まあ気分は変わっても、世の中が変わるわけでもない。

勝手が変わって困ることもある。たとえば、日曜版でいつも必ず読んでいた記事がなくなってみると、それはそれで物足りない。

新しく読む新聞は、全国紙としては3番手だが、地元のブロック紙が圧倒的に強いこの地方では、シェアがわずか5%ちょっと。そうなると、販売店の配達エリアが広く薄くなり、地元密着が要件の折り込み広告がぐんと減る。折り込み広告なんてゴミになるばかりと思っていたが、ここから得る地域情報も結構使っていて、なくなるとやはり不便に感じる。

記者の筆力もときどき不足で気に入らない。日刊紙の発行部数は、この1年で222万部減って4000万部を割り込んだそうだ(スポーツ紙含む)。20年前のピーク時と比べると25%も減らしたというから、各社の経営は大変だろう。取材力や人材の厚さにも当然影響しているはずだ。

なんだかなあと思案していたら、先日、集金が来て、配達もしている人だった。たぶん80歳ぐらいだろう。愛想がよく、元気そうだ。早朝、というより深夜に起きて仕事に入るのは大変だろうが、購読者が増えれば励みにもなるのだろう。これはしばらく断れない。半年か、いや1年か。働く老人をがっかりさせるのは罪深い。

おまじない

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第1.5の人生 2

条件整備の第1は、家事がひと通りこなせること。

妻とはすでに卒婚の関係で、それぞれに独立性の高い生活をしており、私は掃除、洗濯、炊事に犬の世話まで、身の回りのほぼすべてを自分でやっている。できないのはボタン付けなど繕い物ぐらいだ。

世の中には、連れ合いに先立たれると、たかだか日常生活を送るのに手も足も出ない男がいる。家事は女がするものだと思っているから天罰が下る。といって家事の分担の話をしたいわけではない。小はミジンコから大はクジラまで、自力自活はあらゆる生き物の基本条件である。

炊事は単身生活をしていた学生時代に、母親直伝で経験があり、面倒がらなければてんぷらでもハンバーグでも作れる。今どきは外食でも中食でも用が足せるが、健康面を考えると、少々手間がかかっても手料理がよい。生命力は食生活にあり。しかも、空腹を満たすだけではつまらない。ちょっと自慢できるぐらいのおいしい食事を楽しめるよう、この春から料理教室に通うことにした。月に1回、土曜日の午前中2時間なので大した負担にならない。

自力自活が基本条件とはいうものの、それを支えるのは心身のトレーニングになる。なにしろ私ももうポンコツで、手入れをしなければいつボケるか、寝付くかわからない。そこで脳トレには英会話、筋トレにはストレッチかヨガがよかろうと狙いをつけた。

英会話は、短編小説を読んできて批評し合うYWCAの教室に出ることにした。おしゃべり好きの私としては、カラオケでストレスの発散をするような効果も期待できる。

体のトレーニングの方は、一度に3つも始めるのは大変なので、後回しになりそうだ。というより、口を動かすのは得意だが、体を使うのはおっくうな方で、始める前から長続きしそうにないと思ってしまう。筋トレそのものが目的ではなく、やり残したことの点検、選択、実施のための条件整備のひとつなんだし、まあいいか、料理と英語でひと息ついてからまた考えよう、とだんだん言い訳がましくなってくる。

問題は、命がいつまで残っているか、さっぱり分からないことだ。未練がましくダラダラ長生きするよりも、やり残したことを全部片付けてピンピンコロリで文句はないが、人生そう都合よくは終われない。死ぬときぐらい好きにさせてほしいと思っても、尊厳死も安楽死も自裁死も簡単ではない。

残る手段は、いよいよと覚悟を決めたとき、絶食による自然死だが、これも適切なサポートをしてくれる町医者を見つけるのはむずかしい。つまり、今の日本では、進んで死を迎えるのはすべて変死扱いで、関与した医者は自殺幇助や殺人犯にされてしまうので、たいていは逃げ腰になる。

となると、煩わしくなくてよいのが、案外、孤独死かもしれない。(おわり)

おまじない

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人生、計算通りに行かなくても、またよしとする







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第1.5の人生 1

この国では、65歳になると前期高齢者の群れに入れられるが、当時の私にそんな実感はなく、死ぬまでバリバリ働くつもりでいた。ところが、70歳に近づく頃からフルタイムで仕事をするのがだんだんくたびれるようになってきた。80、90でも第一線で衰えを見せない人もいるので、弱音を吐くのは早いと思いつつ、気力、体力、知力が以前のようには働かない。

同年齢の人の大抵はリタイアしていて、とはいえ老け込んだり寝込むのはまだ先で、中途半端に元気が残っている。第2の人生をゴルフや麻雀に、夢中というかムキになって打ち込んでいる人を見ると、第1の人生ではよほど耐えがたい辛い目に会ってきたのだろうか、と余計な想像をしないでもない。ゴルフや麻雀が、その反動あるいは代償として手に入れたかったものだったとしても、社会貢献のかけらもない余生は、充実感どころか自分の社会的な存在位置を見失い、浪費の虚しさだけが残ることにならないだろうか。

逆に、どこまでも過去の地位を譲れない人もいる。組織や団体の名誉職に退きながら、現役時代の特権の味が忘れられず、なにかとにらみを利かそうとする。一目置かれたいのだが、悲しいかなすでにピントがずれてしまっていることに、本人は気がつかない。

スーパーボランティア、尾畠春夫さんのようなすがすがしい生き方もあり、心からの敬意を惜しまないが、私の場合そうすっぱりと第2の人生に切り替えられない事情がある。務めてきた使命からなかなか解放されない不自由さと、調整をしながらでも社会につながる仕事を続けられる自由さの間で、第1の人生用だった時間の3割を、よそに振り替えて同時可動させる第1.5の人生とはどういうものか。

やり残した課題の点検と、選択、実施、そしてそれを支える心身の条件整備、というと企業の研修めくが、3割振り替えをこれに当てると、生活を活性化しながら結構楽しめそうだ。(つづく)

おまじない

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ネコ担当取締役

春が近づくと、ネコがにゃあにゃあとネコなで声を出す。「ダーウィンが来た」の番組なら「恋の季節がやってきました」というところだろうが、そんなしゃれたものではない。性欲があふれてなんともならず、狂い悶えているのだ。

そういうことはプライベート事案なので、好きにしたらよいが、許可もなく他人の家に入り込んでもらっては困る。庭で出産して6匹も産んだり、玄関口をトイレと決めて集中的に放尿したり、弱った子ネコが死んでノミが大量発生したり、ここ数年手を焼いている。

泥棒ならセコムのシールでひるむ。訪問販売なら「セールスお断り」でにべもない。しかし相手がノラネコでは「猛犬注意」の字も読めない。水を入れたペットボトルを置くとか、ネコの嫌う低周波だか高周波だかを流すとよいと聞くが、効果があると聞いたことがない。

一番よいのはイヌを庭に放すことだ。うっかり門を開けたときに、外に飛び出すおそれがあるから、常時放し飼いにはできないが、南側でネコを見かけたら、北側居住のクマゴロウを抱き上げて家の中を通り抜け、庭へさっと放す。しばし追い掛け回せば、ネコも警戒して近寄らなくなるだろう。

という作戦だったが、相手も身軽で、木立ちを縫ってぱっと消える。残念、見逃したが、クマをしばらく走り回らせて、においを撒き散らすようにさせた。

これで少しはと思った5分後、同じ場所に同じネコがふてぶてしく寝転んでいる。てめえ、なめてんのか、ともう1回クマを放す。跳びかかって一撃を食わせろと願ったが、すぐに逃げられた。ジャックラッセルテリアは、もともとキツネ狩り用のイヌなのに、先祖の血筋を忘れたか。もう少しプライドを持ってくれ。

私も出勤時なので、そういつまでもやっていられない。クマには、毎日ムダ飯ばかり食っていないで、少しは役に立て、と意見したが、聞こえないふりをするから情けない。

春先は、散歩に連れて出る代わりに、庭で厳戒パトロールをさせよう。名案といえるかどうか。あちこちで気持ちよくフンをするだけで終わるかもしれない。


おまじない

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ネコも人の迷惑をわきまえてほしい



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信ずるものに幸いあれ 3

宗教史を概観すると、旧態に飽き足らず、突き抜けようとする改革のエネルギーと、勝手に変えようとするな、長年の伝統を守れ、という因習圧力の両方が繰り返し働いているのがわかる。

カトリックはローマ法王を頂点とする一枚岩だが、プロテスタントは日本福音同盟の教派だけでメソジスト系、バプテスト系、ルーテル系など38、独立派や単立も加えると58にも上るようだ。

仏教は、先行するバラモン教の影響を残しながらも、独自の教理で成立し、日本に伝来後は、奈良時代に華厳、三論、成実、法相、律、俱舎の南都六宗、平安時代に天台、真言、鎌倉仏教では法然、親鸞、道元、栄西、日蓮らが、次々と登場して宗派を開いた。

既成の思想体系に疑問を投げかけ、否定し、乗り越えようとする勢いは、四分五裂の道をたどった60年安保から全共闘運動に至る新左翼の動きにもどこか似ている。

現代日本の仏教には、檀家だのみ、葬式待ちの寺の側にも、寺離れ、葬式離れの檀家の側にもそんなエネルギーは残っておらず、今後は大胆な改革がない限り、衰退が加速するばかりだろう。

一方で、タイやスリランカのような信仰の篤い仏教国と比べてみて、南ルートで伝播していった上座部(小乗)仏教に対し、分裂して北ルートを進んだ大乗(大衆部=だいしゅぶ)仏教に、そもそもの深い根があるのではと思わないでもない。

上座部仏教では、出家者が覚醒して輪廻転生を断ち切るとしているから、来世でどうなるか分からない一般人の思いは真剣で、仏法僧を深く敬っている。大乗仏教では衆生を見放さないことになっているから、どうしたって楽観的になる。古代から天皇や貴族、豪族、武士、と時の権力者が庇護してきた仏教を、明治以後は檀家が支えるようになり、その檀家が輪廻転生など気にかけなくなって、葬式を待つ以外は無為無策の寺から離れ始めた。

宗教のウソを無条件で信じる人、方便としてその意図をくみ取る人、頭からバカにする人、のうち、最も幸せになれるのは最初の人だろう。

こんな讃美歌があるのを最近知った。

きみは愛されるため生まれた
きみの生涯は愛で満ちている
今もその愛受けている
きみの存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう

聞いているだけで、自分が守られていると感じ、心が安らぎ、やさしい気持ちになる。宗教はそういうものだろう。理屈も証明もいらない。信じるとはそういうことだろう。私には遠すぎる道のりだが。(おわり)

おまじない

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求める人には救いの手を







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