母が習字をやっていたので、筆や墨、硯、文鎮などは揃っている。生きていれば、一緒に稽古して多少の親孝行にもなっただろうが、5年前に亡くなった。
友達が先に習っていたので、講師や教室のようすはあらかじめ聞いていた。週1回、2時間の指導だが、10数人の生徒が、家で書いてきた半紙を10枚、20枚広げて、いいとか悪いとか朱を入れてもらう。先着順で、ひとり3分、5分もあれば終わってしまう。始業に遅れても構わないが、全員を見終わると30分ほど早く店じまいになるので、時間半ばには来て、他の生徒の手直しを見ながら順番を待つ。
筆を持つのは中学以来だからどんなものかと思ったが、書いてもらった手本を見ながらの練習なので、それなりには書ける。手本はまず楷書から。講師はさすが手馴れてさらさらと、当たり前だが苦もなく巧みに書いてくれる。希望としては行儀のよい楷書より、勢いや味のある字を書きたい。筆に慣れてきたら、手本を行書にしてもらうが、所詮は見よう見まねの域を出ないのだろう。
自筆という以上、本当は独自の味わいが出せなければ意味がないが、それは書家に求められる水準になる。私の場合、手本に追いつかない稚拙さが、オリジナル色になりそうだ。それでよい。
教室に来ている生徒はみな10年、20年選手で、背丈ほどもある紙に漢詩だの俳句だのを、墨痕鮮やかに書き連ねて持ってくる。もう習わなくても充分りっぱに書けるのにと思うが、そういうものではないらしい。コンクールに出品して受賞したり、段位を上げたり資格をもらうのを励みにしているのだろう。習い事に共通で特有の世界がある。マズロー流の心理分析で言えば、所属の欲求と承認の欲求と言えばよいか。
そう思うと、私の素直でない性格がちょっとひとこと言いたがり始める。王義之や小野道風の書体、筆跡を真似てなぞったり、李白、芭蕉の詩歌を借りてきて何度書き直したところで、真筆と模倣の間をどれだけ埋められるかという欠乏動機に終始し、「我は我なり」の存在動機が満たせるとは思えない。
入りたての新顔が、憎まれ口を叩くのは慎まないと。群れに抵抗なく、従順に溶け込むのはどうも苦手で困ったものだ。
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