へそ曲がりの手習い

4月から1年のつもりで書道教室に通い始めた。創業80周年の記念モニュメントに、企業理念を自筆で入れるため。失笑を買うようなカナクギ流では具合悪かろう。

母が習字をやっていたので、筆や墨、硯、文鎮などは揃っている。生きていれば、一緒に稽古して多少の親孝行にもなっただろうが、5年前に亡くなった。

友達が先に習っていたので、講師や教室のようすはあらかじめ聞いていた。週1回、2時間の指導だが、10数人の生徒が、家で書いてきた半紙を10枚、20枚広げて、いいとか悪いとか朱を入れてもらう。先着順で、ひとり3分、5分もあれば終わってしまう。始業に遅れても構わないが、全員を見終わると30分ほど早く店じまいになるので、時間半ばには来て、他の生徒の手直しを見ながら順番を待つ。

筆を持つのは中学以来だからどんなものかと思ったが、書いてもらった手本を見ながらの練習なので、それなりには書ける。手本はまず楷書から。講師はさすが手馴れてさらさらと、当たり前だが苦もなく巧みに書いてくれる。希望としては行儀のよい楷書より、勢いや味のある字を書きたい。筆に慣れてきたら、手本を行書にしてもらうが、所詮は見よう見まねの域を出ないのだろう。

自筆という以上、本当は独自の味わいが出せなければ意味がないが、それは書家に求められる水準になる。私の場合、手本に追いつかない稚拙さが、オリジナル色になりそうだ。それでよい。

教室に来ている生徒はみな10年、20年選手で、背丈ほどもある紙に漢詩だの俳句だのを、墨痕鮮やかに書き連ねて持ってくる。もう習わなくても充分りっぱに書けるのにと思うが、そういうものではないらしい。コンクールに出品して受賞したり、段位を上げたり資格をもらうのを励みにしているのだろう。習い事に共通で特有の世界がある。マズロー流の心理分析で言えば、所属の欲求と承認の欲求と言えばよいか。

そう思うと、私の素直でない性格がちょっとひとこと言いたがり始める。王義之や小野道風の書体、筆跡を真似てなぞったり、李白、芭蕉の詩歌を借りてきて何度書き直したところで、真筆と模倣の間をどれだけ埋められるかという欠乏動機に終始し、「我は我なり」の存在動機が満たせるとは思えない。

入りたての新顔が、憎まれ口を叩くのは慎まないと。群れに抵抗なく、従順に溶け込むのはどうも苦手で困ったものだ。


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おへそはいつも真っ直ぐにしましょう



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年寄りのゴルフ

80になってもやれるスポーツというと、ゴルフ以外そうはない。ゴルフのおかげで元気という人もいれば、足許が覚束ないからカートで移動し、キャディに助けられながらも、あわてず騒がずラウンドする人もいる。心底大好きという人もいるが、年寄りゴルファーの多くは健康維持、病後のリハビリ、あるいは単なる暇つぶし。

止まっているボールを打つのだから、動体視力も反射神経もいらない。マイペースで遊べるが、それでもひとり黙々とプレーするのでは、仕事か修行でもしている気分になるから、一緒に回って楽しむ相手がいる。

年寄りは暇と言っても、車に乗ってちょっと遠くのゴルフ場で落ち合い、朝から夕方までの1日がかりなので、メンバー調整、日程調整が結構大変になる。誘い誘われの仲間や、手持ちのグループをいくつか用意しておかないと、いつでもちょいちょいというわけにはゆかない。

そのいつもの顔ぶれも、ひとりふたりと抜けたりする。首が回らない、肩を壊した、腕が上がらない、腰を傷めた……。「お大事に」と、患者を見送る病院か薬局の受付嬢みたいなことを言って、代わりを捜すことになる。

年寄りはまた、結構注文がうるさい。料金の高い土日は割引券でもないと行きたがらない。平日で都合はつくわけだし、年金生活者として基本の心がけになる。朝早いのは苦にしないが、日が暮れてからの帰りの運転はなるべく避けたい。用意のよい年寄りは、若手の仲間をちゃんと見つけて「いつも悪いね」と言いながら送り迎えしてもらう。

一昨年の暮れにリタイアして暇になったA君が、「遊ぼ、遊ぼ」としきりに誘ってくる。彼とは同じゴルフ場の会員なので、土日でもメンバー料金で問題はないが、もうひとりぐらい面子がいる。それも会員なら料金に気兼ねなく好都合だが、やりくりに苦労していた。

そんな折、現役で忙しいB君からA君に「またゴルフを再開した」との年賀状が届いた。B君も同じ会員なので、それはいい、早速誘って予約しろとA君に言ったのだが、もたもたしてなかなか話が進まない。しばらくしてB君から私に電話があり、私に頼めば手配してくれるとA君に言われたと言う。

いつも人を当てにして、Aはしょうがないやつだと思いながら、3人の都合のよい日で予約を取ったら、B君から連絡が来て「その日は都合が悪くなった」。1週早い土曜に変更してキャンセル待ちにしていたら、やがてゴルフ場から取れましたと電話が来たのはよいが、なぜか1日間違えて日曜になった。今度はA君がその日はダメで、あわてて取って置きのC君の参加を取り付けた。

やれやれと思った予約日の4日前、B君から「階段から転んで、肩を傷めた。ゴルフできない」としきりに恐縮して言う。無理するな、お大事にという他ない。キャンセル料がかからないぎりぎりで、すぐにゴルフ場に連絡した。B君の希望で、非会員には料金が一段と高いオフィシャルコースだったので、もう人探しはやめてC君と2人、フリーの人が入ってもどうぞにした。

年寄り同士でゴルフをするのはこんなにくたびれる。


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年寄りは面倒でもいたわりましょう



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犬と桜見物

願わくば 花の下にて春死なん その望月の如月の頃  西行

花とは桜のこと。如月の望月とは陰暦の2月15日。涅槃会つまりお釈迦さまの入滅の日で、陽暦では3月末になる。今年は桜の開花が早く、例年なら今ごろが満開なのに、もうだいぶ散ってしまった。

家の近くの川の両岸に沿って2キロほどの桜並木が続く名所がある。近くていつでも行けると思うから、かえって毎年見過ごしてきたが、今年は犬と一緒に3回出かけた。

北側の家を耐震工事して移ってから、犬の昼間の居場所が日当たりの悪い北側の狭いスペースになった。高齢のコジローは時々うぐーとゲップのような鳴き声を出す以外は丸くなって寝てばかりいるが、その子のクマゴローは、以前のように広い芝生の庭を走り回れなくてストレスがたまるようだ。ドッグランに連れてゆけば喜ぶだろうが遠いので、30分の桜見物で私も楽しむことに。体力のないコジローは別途連れて、家の周りをうろつく程度。

桜はいつ見てもいい。淡いピンク色が、華やかでいて派手ではなく、ちょうどよい上品さを失わない。葉もまた奥ゆかしく、満開の邪魔をせず花が散るまで存在感を消して待つ。

川面に向かって、両側から枝がすうーと伸びる。川面で反射する光に枝が誘われるからなのだそうだ。橋の真ん中で、ゆるく蛇行してゆく川を眺めるのが絶景スポットで、行き交う人がしばし立ち止まる。クマゴローは全然興味を示さない。なにか食い物が落ちてないか、せわしなく地面を終始嗅ぎ回る。

私が子どものころは、両岸に屋台がずらりと並んだ。入ったことはなかったが、川面に突き出た桟敷だったか椅子にテーブルだったか、酒やダンゴ、おでんが売られ、酔っ払いが上機嫌で歌ったり談笑したりしていた。その後、食品衛生法や道路交通法などの網にかかって、きれいさっぱり姿を消したが、いまにしてみれば、桜を愛でながらのんびりと酒を飲んでみたかった。

近所のそば屋で、この時期だけ木の芽田楽を出す店がある。店から桜は見えないが、田楽を食っただけで、ああそうだ、桜見物の季節なんだなという気分にはなれる。

今年は川に面した一軒の民家で、コーヒーやソフトクリームを出す店を見かけた。犬を連れた客のために、庭の一角に犬の休憩用の柵も設けてある。桜が散っても店をやっているのだろうか。この川沿いは一年中健康オタクのジョギングコース、ウオーキング銀座だから、ボチボチの商売になるのかもしれない。

まあしかし、散歩の途中で飲むなら、やはり冷えたビールか冷酒だな。葉桜を見ながらでも。


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花見酒許可特措法を承認してほしい



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幼なじみのその後

このところ毎年正月になると、百人一首をパロディにした時事狂歌を、年賀状代わりに送ってくる友人がいる。「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」の本歌から「あいびきの山尾の弁の白々しさよ、長ながし夜を1人で寝たとは」といった具合だ。

彼とは幼稚園から高校まで同窓だった。家が近所なので幼い頃は互いの家によく遊びに行った。中高では一緒のクラスになったことはなかったように思う。大学で私は上京、彼は地元に残り、だんだん会う機会もなくなった。就職で彼が上京してきたあとも、会ったことはなかった。というより知らなかった。

ずいぶん長いブランクがあって、再会したのは小学校の同窓会の場でだった。私が10年ぶりに出かけてみたら彼が来ていて、リタイアしたのでUターンの準備をしていると話していた。私は先に地元に戻っていた。

その後、彼の引っ越し先を訪ねることがあった。私が潰瘍性大腸炎になり、この先どうしたものか不安になっていたとき、彼の奥さんが同じ病気のベテランと聞き、なにかと丁寧な助言を受け、理解が進んだ。

彼の新宅はゴルフ場から5分の立地にあり、そのために選んだのか、年に130回も通う熱の入れようだ。調子がいいと70台のスコアで回る。去年はホールインワンをしたらしい。小学校の時は鈍足で、運動会を嫌がっていたのに。当時私は、花形のリレー選手だったが、いまやどのスポーツにも見せ場がない。どこで運命が入れ替わったのか。

今年は2月に男女8人でフィリピンまで行って、4泊5日のゴルフ三昧だったとメールが来た。同じ大学、同じワンダーフォーゲル部だった奥さんもゴルフをやるというから、仲良く夫婦で行ったのかもしれない。その頃私はといえば、会社の年度末の準備に気を取られ、メールが来たことも気がつかなかった。

はた目には悠々自適を絵に描いたような第2の人生に映るが、勝手気ままに飛び跳ねている風でも、にぎやかに開放満喫のし放題のようでもない。むしろいつも地味に同じ調子で変わりなく、羽目をはずすこともはしゃいで笑うところも見たことがない。どこかで自分にきっちりと自制をかけているようにさえ見える。

だから、彼が狂歌で見せるようなウイットや風刺を利かせた一面を、会話のやり取りの中から引き出すことはできず、大して面白くない。。話を弾ませようと、つい自制が利かずに失敗する私とは、どこがどう違うのだろうか。


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一度、脇の下をくすぐって笑わせてみたい



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ゾンビのホームパーティ

高校時代のクラス会の案内が来て、出席で返事を出したが、開宴が土曜の夜5時半となっている。私は朝晩7時に糖尿病の愛犬にインスリンの注射を打っているから、会場に駆けつける頃には宴は終わっている。注射を1時間早めても大差ないので、あらためて欠席の連絡を入れた。

会が終わって2、3日したら、幹事のA君から当日の写真が送られてきた。お礼のメールをと思ったが、ショックを受けて書く気になれない。どの顔もみんなじいさんで、そりゃ同じ歳だから当たり前だし、昔のままのはずはないが、それにしてもあいつもこいつも別人のような変わりようで、これじゃあどこかの老人ホームか介護施設のホームパーティと区別がつかない。中にはゾンビになりかけみたいなのもいて、痛々しさを通り越して、ちょっと怖い。

なにかと心配りの行き届くA君は、だれだか分からないと困るだろうと、卒業アルバムから写し撮った昔の顔写真と新旧並べたものも用意してくれた。これが私の心に追い討ちをかけ、ダメージを広げる。昔の写真で昔がよみがえる。そうだこれがあいつだ。間違いない。それなのに、なんでここまでこうなっちゃうのか。もう少しなんとかならなかったのか。ということはつまり、私もだれかにそう思われているに違いない。

男子校でよかったと思う。クラスの憧れの君やマドンナがいたら、「青いレモンの味」のまま、しっかり思い出の中に閉じ込めておくのがよい。再会などとんでもない。「恋は不思議ね、消えたはずの灰の中からなぜに燃える」のは歌の中の話で、不思議ねもなぜにもクソもない。

クソといえば、介護老人も赤ちゃんも同じオムツをしながら、世話をする側の気持ちがまるで違う。無限の未来に包まれた赤ちゃんには、日々の成長に目を見張り、寄り添い手を差し伸べる者の言い知れない喜びがある。一方、介護老人の未来は細るばかりで、遅かれ早かれの終末期。長引けは世話がやけて厄介だろう、と世話される方も肩身が狭い。

70まで大過なく元気で生きて来られたら、もうそれ以上は、アンチエイジングなどとわがままを言ってはいけない。長生きもほどほどがよい。


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怖くないゾンビになれますように



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みんな知ってて言えないこと

3週前の本欄「ツギハギ行政」で「怪しげな国税庁長官を、まずつまみ出さないと」と書いたら、ほんとにそうなった。もちろん私の「おまじない」が効いたわけではない。本人の辞任願いに基づくものということになっているが、森友問題がだんだん大ごとになってきたので、財務省が詰め腹を切らせたのは見え透いている。

そもそもこの森友問題は、表面化した1年前からずっと真相は見え見えなのに、官邸の往生際が悪く、ずるずる引きずってここまで来た。麻生財務相の会見では、佐川前長官の理財局長当時の対応を辞任(事実上の更迭)の理由にしているが、総理の意向、官邸の指図がなければ、理財局長が並々ならぬ決意で、知らぬ存ぜぬのウソの国会答弁を繰り返し、貫き通す理由がどこにあるのか。

個人の問題として罪をなすりつけておいて、そのくせ国税庁長官任命は適材適所だったと、財務相も総理も自分にはどこまでも火の粉がかからぬよう細心の注意、あるいはツラの皮の厚さ。

いくら見え見えでも言いぬけ通せば勝ち、というしたたかさは、理財局長当時の国会答弁のときに感じたことだった。カエルのツラに水、いやションベンをかけられても動じない。このくらいしぶとくなければ高級官僚にはなれないんだな、と私は感心さえした。忠誠を誓うことによって長官の座が転がり込んだ、いや、“役目”を全うすれば長官にしてやると約束されたのかもしれない。情勢がおかしくなって、哀れトカゲのシッポ切り。

籠池夫妻はこのままずっと口封じしておけばよいし、高級官僚、いざとなると木っ端役人の首をひとつ飛ばしてすむなら、お安い御用だ。そういえば、加計問題でも前川前文部事務次官の告発をうやむやにして葬り去った。

手に入れた権力は、醜態をさらしても絶対手離さない。卑しいやつらだ。これが「必殺仕事人」のドラマなら、これからいよいよテーマソングに乗ってヤマ場を迎えるところだ。ただし、このドラマは最初から黒幕が分かっているので、意外性を期待できない。

束の間の栄転後、見捨てられ、転落した木っ端役人は、自分の人生をどう納得させるのだろう。自殺した部下に比べれば、命があるだけでもずっとまし、と慰めるのか。いっそ、真相のすべてをぶちまけたら、話題騒然、痛快無比のノンフィクションドラマに仕立て上がるのに。


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現実社会も勧善懲悪でなくちゃ



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アリかキリギリスか

イソップ寓話の中に「アリとキリギリス」という話がある。夏の間、勤勉なアリはせっせと働いて食糧を蓄える。遊び好きのキリギリスは、一日中音楽を奏でて楽しんでいた。冬になって食べ物がなくなり、アリに助けを求めるが、断られて死に絶える、というのがオリジナル版。食糧を分けてもらって助かる話ものちにできた。

寓話だから働き者がマルで、怠け者がバツの教訓を残せばすむ話だが、人間の考え方や行動はそう単純に二分できるものではない。学校では「よく学び、よく遊べ」なんて調子のよいことをいう教師もいた。

さらに、格差社会ともなると、夏も冬も必死に働いてやっと糊口をしのぐアリ型境遇と、年中遊んで暮らしているキリギリス型生活が並存している現実がある。

イソップにケチをつけたいわけではない。そうせざるを得ない場合でも、そうしなくてもよい場合でもなく、それでもせっせと働く人と、できればなるべくラクをしたい人とがいて、さてどちらが幸せなんだろうかという話を考えてみた。

近ごろは過剰労働や過労死が常に問題視されるようになり、仕事中毒だのワーカホリックだのという言葉は死語になったが、かつてはそこに自負や敬意を交えて語られる時代があった。仕事第一、仕事こそわが命という人は今でも少なからずいる。

彼らは自分の仕事に誇りを持ち、他に代えがたい充実感を感じているので、なんらかの事情で取り上げられてしまうと、生きる目標を見失って、抜け殻のようになってしまうことがある。燃え尽き症候群などと呼ぶ。アリからキリギリスへの変身は、ラクになれるようでなかなかむずかしい。

これとは逆に、日ごろはあまりムリをせず、ほどほどの手抜きでそこそこ居心地のよい生き方をしてきた人が、不治の病で余命半年と宣告されたとたん、なんであれ強い使命感に動かされ、命が尽きるぎりぎりまで取り付かれたように打ち込む姿もしばしば見受ける。見ていて悲壮で、幸せかどうか軽々しくは言えないが、少なくとも本人はキリギリスからアリへの変身を自ら望んだことになる。

アリはアリのまま、キリギリスはキリギリスのまま、自分らしく一生を終えられたら幸せなのだろうが、人の一生は途中で何が起こるか分からない。人間万事塞翁が馬と心得て、運命に逆らわず、潮目に身を任せるのが上策なのだろう。不運でも、不器用でも、その人なりにやりようはある。


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「禍福はあざなえる縄のごとし」とも言う



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ツギハギ行政

政府の閣僚会議で、公務員の定年を段階的に65歳に延長引き上げる方針を決めた。2021年度にも着手の見通しだが、当然、民間に右へならえへの波及を促すことになる。遅かれ早かれの既定路線で、頃合いを見て切り出してきた。

すべての人が意欲や能力に応じて働ける一億総活躍社会、などときれいごとを言っているが、要するに破綻寸前の年金制度の帳尻あわせにすぎない。現行の年金受給開始年齢を引き上げてゆくと、60歳定年では退職後から支給までの間に空白ができる。だから就労を延ばしてこの穴を埋めようという単純な話だ。だれがこんな事態を招いたのか。議員定数や議員報酬の大幅カットにはどこまでも抵抗する、いじましい人たちが考えそうなことだ。

現行、年金受給開始年齢は原則65歳で、60~70歳の範囲で選べるが、早めれば受取額を減額、遅らせると増額になる。これをさらに70歳以上を選べばさらに上乗せする改正案も上げている。目立たないように、ズル、ズル、と引き上げる。「だるまさんが転んだ」作戦とでも呼んでやるとよい。

元気なうちはいつまでも働いたらよい、と思う。やることがなくなって無為徒食の老後や、暇を埋めるのに汲々とする生活より、現役でまだ必要だと期待されるほうが、張り合いもあってずっとよい。しかしことはそう簡単ではない。

どの家庭でも起こりうる介護問題。働き盛りの50代で親の介護のために仕事を辞める、60代、70代で老老介護に疲れ果てて無理心中をする、という深刻な事態が当たり前に起きているのに、国は支援制度も整わぬまま、できるだけ在宅介護をと押し付けている。ここでも貧困な社会保障制度が露呈している。

さらに、高齢者雇用が優先されれば、若年者の就労が閉ざされ、企業は世代交代による新陳代謝が停滞し、国の活力がますます失われてゆく。かつて先進技術を蓄えて輝いていた企業も、過去の遺産を切り売りして疲弊している。

国が借金まみれなんだからしょうがねえだろう、と言いながら、借金を返す気が全然ない。借金返済には消費税増税しかないと迫られても、いざとなると選挙が怖くて目くらましのバラマキ作戦でかわしにかかる。失われた20年の次は、その場しのぎのお手上げ20年か。


必要な増税はすればよい。問題なのは税の使い道だ。官僚の天下りやモリカケに横流ししてとぼけている場合ではなかろう。
北欧のような先進福祉国家といわないまでも、国民皆保険による日本の医療保障や年金制度は世界に誇れるすばらしいものだった。もう一度、一から出直す気で、長期の国家戦略をしっかり立て、税金をまじめに使って欲しい。


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怪しげな国税庁長官を、まずつまみ出さないと



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原罪の自覚と自戒

シカゴに留学中の娘から、ベジタリアンをどう思うか、とラインで質問が来た。イギリス人の男友達がベジタリアンで、それ以外にもそれ系の友達が何人かいるようだ。

どう思うかと聞かれても、キャベツやニンジンばかりかじっているウサギのイメージしか浮かんでこない。生肉にかぶりついて口の周りを血だらけにしているよりはマシかと思うが、どちらにせよ偏食はよくないだろう。というぐらいのつもりでいたが、娘のラインを読んでいると、これは趣味嗜好というよりも主義主張のようで、娘がウサギになっても困るので、ベジタリアンなるものをちょっと調べてみた。

ひとくちにベジタリアンといっても、その主義は多様で、動物肉や魚介類はダメだが卵、乳製品、蜂蜜は許容したり、それもダメだったり、さらに革製品、絹、ウール、真珠もダメというのもあって、それぞれラクト・オボ・ベジタリアンだのヴィーガンだのと呼び名がついている。動物肉はいけないが魚介類はよいというセミ・ベジタリアンや、植物も制限するマクロビオティックなんてのもある。

理由もさまざまで、宗教的立場からは殺生戒、倫理的には家畜に過酷な工場畜産システム、健康上では肉食による生活習慣病や認知症のリスクを上げている。環境保護からは、牛肉1キロを生産するのに11キロの穀物を必要とし、食糧自給率ばかりか、飼料の生産のために消費される化石燃料や水資源に問題ありとする。

指摘はひとつひとつもっともだが、では牛肉、豚肉を食わなければ、少なくともその人の問題は解決したことになるのだろうか。自然界は食物連鎖のもとに成り立っている。人間もまた、心ならずも他の生き物の命を犠牲にしなければ生きてゆけない。それを避けがたい原罪と呼ぶなら、連鎖から部分的にはずれることによって自分は罪を免れると思う方が、問題ではないか。

彼らに免罪という認識はないだろう。しかし、牛豚はダメだが魚はよい、魚もダメだが野菜はよい、という線引きに、自分で決めた免責がある。逆に言えば、牛豚はよいが、なぜ鯨やイルカはダメなのか。反捕鯨団体は、鯨は頭のよい哺乳動物なんだと主張する。自分に近いものを優性、遠いものを劣性に位置づける考え方こそ、国家や民族、人種の間で偏見や差別、虐殺や侵略を繰り返し生んできた。

生態系の頂点に立ち、やりたい放題にやりすぎてきた人間の営みに、ベジタリアンが警鐘を鳴らしているのも事実だが、食べ物に主義主張を持ち込むのはムリがあり、ひとつ間違うと独善の正義に転ずる危うさがある。

ベジタリアンであろうとなかろうと、原罪の自覚と自戒を忘れないこと、これがまず先ではないか。


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手を合わせ「いただきます」の自覚と自戒



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新刊新書の「定年後」バトル 3

さて2冊の指南書の間で、私はどう泳いだらよいか。仕事は当分辞めないにしても、だんだん減らしてゆけば暇ができる。寝覚めの早い睡眠障害があり、眠けりゃ昼寝でよいが、眠くないときもある。退屈なのも困るので、やはりなにか始めたくなる。

習字はどうか。会社が来年80周年を迎えるので、企業理念を入れたモニュメントを制作する計画でいる。企業理念は長文なので、その超コンパクト版もある。「如是我聞――森羅万象に生かされ、志をもって一隅を担う」。これを書家に書いてもらえば世話がないが、暇なら練習して自筆にしてもよい。

後進に伝える言葉を残すのは、銅像を残すような悪趣味ではなかろう。もっとも、何年かしたら邪魔物扱いされて、倉庫に放り込まれないとも限らない。生々流転の無常の世に、思いを込めてなにかしら遺すと、かえってやらずもがなの結末を招くこともある。

ストレッチと筋トレ。いつまでも元気で長生きしたいなどと欲の深いことは願っていない。老衰で時期が来れば、自宅で穏やかに自然死したい。自然死とはつまり、食べられなくなれば点滴も胃ろうも人工の栄養補給もせず、食わず飲まず医者にいじられず、緩和ケア以外は放っておかれてくたばりたい。そのためには、なにかのはずみで救急車を呼ばれ、病院に運び込まれない程度の体力の維持がいる。とはいうものの、トレーニングジムは、おととし10月に始め、2カ月経って寒くなったらおっくうになりやめた前科がある。

体を動かすのは嫌いだが、口はよく動く。英語のカラオケ教室はどうだろう。読むより書く、聞くより話す、つまりアウトプットの方が好きなので、いいかもしれない。おしゃべりするなら英会話教室でもよいが、英字新聞の記事を宿題に出され、翌週討論という授業なんかだと、大して関心のない記事を読まされたりもするので、もうそこまでがまんしたくない。

ジャズやソウルの好きな曲を選んで歌い込めば、楽しいだろうと思う。だが、よく考えると発表の場がない。今でも、たまに「マイウエイ」なんかを歌うと、店の中がちょっと鼻白んでビミョウな空気になる。そんな歌を、うれしそうに人前で何曲も歌おうものなら、「あいつ、かぶれちゃってるな」と鼻つまみ者にされるに決まっている。

料理教室。学生時代に自炊をしていたことがあるから、料理は一応できるが、もっと腕を上げてうまいものを作りたい。男も家事ぐらいこなせないと、ひとりになったとき難儀をする。クックパッドで間に合えば、わざわざ出かける手間もいらないが、こういう教室だと同好の酒飲み仲間ができるかもしれない。

いろいろ思いつくのは楽しい。実行するかどうかは疑わしいが、思いつくだけで退屈しのぎになる。地図を見ながら旅行した気分になるようなものか。「定年後」支持でもあり「定年バカ」支持でもあり。

寿命というタイムリミットに現実味を帯びて向かい合う年齢なのに、そのタイムリミットがいつ来るのか分からない。数年先か、まだ20年も先なのか。一生のうちで先の見当が一番つけにくいゾーンに入っている。3年先まで見て、3年経ったらまた考えよう。(おわり)


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急がず遅れず、自分らしく



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